吹奏楽コンクール
2006年 05月 27日
私は、実家に帰っていました。
大きな鞄を肩にかけた私を両親はにこやかに迎えてくれました。
でも、どこかよそよそしい。
両親は対立していました。いや、父は、必死で母を労わろうとしていた。しかし、母は、半ばヒステリックに父を避けていました。確かに、父の言い方は母の神経を逆なでしていたのですが、それでも、父は母を思いやっていました。それが、母には伝わっていませんでした。
母が料理を用意し始めました。母の手料理を食べるなんて久々のこと。メニューは冷しゃぶのようです。
が、なぜか一膳だけ、台所ではなく、居間に用意されいます。
それは、母のでした。母は、父を避けて一人居間で食べようとしていたのでした。
私の中に、急に悔しさというか、やりきれないような気持ちがこみ上げました。
涙を流し、手元にあった扇風機を窓ガラスに投げつけました。
母は、無理に笑顔を作り、ごめんごめんといって自分の料理を皆と一緒に台所に並べました。
食事を終えて。
私は急に、その日が高校の吹奏楽コンクールの日であったことを思い出しました。
しかも、もうすぐ集合時間のようです。急がなくちゃ。
演奏用の服は、ちゃんとあります。クリーニングに出し忘れてたから、ちょっと皺がついてるけど、ま、いっか。
で、集合場所は?今日の日程は?
ポケットをまさぐり、真っ青になりました。
今日のコンクールのスケジュール表が、ない。
正確な集合時間と集合場所が分かりません。ポケットから出てくるのは、車の見積書や、何かの設計図や、国際法のメモとか、そんなのばかり。
両親にも手伝ってもらい、そこらじゅうをひっくり返してたら、更に恐ろしいことが頭に浮かびました。
演奏する曲、なんだっけ?
演奏した記憶だけはありました。一度だけ、最初の合奏で初見で演奏したものです。私はタンバリンの担当でした。やたら忙しい、しんどい曲で、楽譜についていくだけで必死でした。
げっ、これまでに演奏したの、たったの一回だ。なんで俺、練習してないのよ。曲もちょっとしか記憶にないし、殆ど初見に近い状態じゃん。大丈夫だろうか。ついていけるだろうか。いや、絶対に大丈夫じゃないな…。
ってか、課題曲は何?
課題曲のほうは、記憶のかけらもありませんでした。
これでは無理、絶対に無理です。
私のために、みんなに迷惑をかけるわけにはいかない。少々楽器が欠けても、私は出ないほうがいいでしょう。スケジュール表もないし、ええい、休んじまえ。
で、電話で友達に今日は出ないと伝えようとして、今はもう高校生じゃないことを思い出しました。
つまり、練習してなかったのは、会社に行ってたためだし、そもそも吹奏楽部の一員として演奏しなくていいのです。
心底、ほっとしつつ目が覚めました。
・ ・ ・
ものすごく疲れる夢でした。しかも、この夢で、忘れかけていた記憶を一つ思い出しました。
私が、どうして地元ではなく、広島の大学に進学したのか。
そこには、自分の興味や将来の設計より、ひたすら実家から逃げ出したいという思いがありました。
当時の我が家は、冷え切っていました。両親の不仲をうまく和らげてくれていた姉が家を離れてからは、悪くなる一方でした。
多分、もっと強い神経を持っていれば、耐えれたと思うのですが、それまで何の苦労もなく育ち、なおかつ神経質な私には過酷でした。
何とかして逃げ出さなければ。
受験勉強は、もう必死でしたよ。今から考えたら相当アホですが、実家から逃げるため、殆どそのためだけに、猛勉強していたんです。もっと上昇志向の目的があれば良かったのにねえ。
そんなわけだから、第一志望の大学には合格したものの、大学生活はうまくいきませんでした。で、結局途中で大学を変わることになりました。つまり、再び、私は逃げ出したわけです。今度は大学からね。
考えてみれば、なんか逃げてばっかりの人生ですね。
正直、逃げずに踏ん張っていれば、多分別の人生もあっただろうな、とは思います。踏ん張れなかった為に、随分と多くのものを犠牲にしてしまいました。
でも、こうした経験も自分の身になってると思うし、まあいいかなって感じがしています。以前に比べると随分と視野も広がり、最近は、色々と挑戦する意欲も湧いてきました。やりたいことは山ほどあります。
いつ、何が原因で死んでしまうか分からないから、今のうちに人生を楽しむだけ楽しみたいです。
ちなみに、今の我が家の状態は、まあまあです。
一時期はどうなることかと思ったけど、最近になって父は不思議なくらい丸くなり、母も自分の問題を直そうとしています。
私も、負けずに日々精進せんとねえ。
大きな鞄を肩にかけた私を両親はにこやかに迎えてくれました。
でも、どこかよそよそしい。
両親は対立していました。いや、父は、必死で母を労わろうとしていた。しかし、母は、半ばヒステリックに父を避けていました。確かに、父の言い方は母の神経を逆なでしていたのですが、それでも、父は母を思いやっていました。それが、母には伝わっていませんでした。
母が料理を用意し始めました。母の手料理を食べるなんて久々のこと。メニューは冷しゃぶのようです。
が、なぜか一膳だけ、台所ではなく、居間に用意されいます。
それは、母のでした。母は、父を避けて一人居間で食べようとしていたのでした。
私の中に、急に悔しさというか、やりきれないような気持ちがこみ上げました。
涙を流し、手元にあった扇風機を窓ガラスに投げつけました。
母は、無理に笑顔を作り、ごめんごめんといって自分の料理を皆と一緒に台所に並べました。
食事を終えて。
私は急に、その日が高校の吹奏楽コンクールの日であったことを思い出しました。
しかも、もうすぐ集合時間のようです。急がなくちゃ。
演奏用の服は、ちゃんとあります。クリーニングに出し忘れてたから、ちょっと皺がついてるけど、ま、いっか。
で、集合場所は?今日の日程は?
ポケットをまさぐり、真っ青になりました。
今日のコンクールのスケジュール表が、ない。
正確な集合時間と集合場所が分かりません。ポケットから出てくるのは、車の見積書や、何かの設計図や、国際法のメモとか、そんなのばかり。
両親にも手伝ってもらい、そこらじゅうをひっくり返してたら、更に恐ろしいことが頭に浮かびました。
演奏する曲、なんだっけ?
演奏した記憶だけはありました。一度だけ、最初の合奏で初見で演奏したものです。私はタンバリンの担当でした。やたら忙しい、しんどい曲で、楽譜についていくだけで必死でした。
げっ、これまでに演奏したの、たったの一回だ。なんで俺、練習してないのよ。曲もちょっとしか記憶にないし、殆ど初見に近い状態じゃん。大丈夫だろうか。ついていけるだろうか。いや、絶対に大丈夫じゃないな…。
ってか、課題曲は何?
課題曲のほうは、記憶のかけらもありませんでした。
これでは無理、絶対に無理です。
私のために、みんなに迷惑をかけるわけにはいかない。少々楽器が欠けても、私は出ないほうがいいでしょう。スケジュール表もないし、ええい、休んじまえ。
で、電話で友達に今日は出ないと伝えようとして、今はもう高校生じゃないことを思い出しました。
つまり、練習してなかったのは、会社に行ってたためだし、そもそも吹奏楽部の一員として演奏しなくていいのです。
心底、ほっとしつつ目が覚めました。
・ ・ ・
ものすごく疲れる夢でした。しかも、この夢で、忘れかけていた記憶を一つ思い出しました。
私が、どうして地元ではなく、広島の大学に進学したのか。
そこには、自分の興味や将来の設計より、ひたすら実家から逃げ出したいという思いがありました。
当時の我が家は、冷え切っていました。両親の不仲をうまく和らげてくれていた姉が家を離れてからは、悪くなる一方でした。
多分、もっと強い神経を持っていれば、耐えれたと思うのですが、それまで何の苦労もなく育ち、なおかつ神経質な私には過酷でした。
何とかして逃げ出さなければ。
受験勉強は、もう必死でしたよ。今から考えたら相当アホですが、実家から逃げるため、殆どそのためだけに、猛勉強していたんです。もっと上昇志向の目的があれば良かったのにねえ。
そんなわけだから、第一志望の大学には合格したものの、大学生活はうまくいきませんでした。で、結局途中で大学を変わることになりました。つまり、再び、私は逃げ出したわけです。今度は大学からね。
考えてみれば、なんか逃げてばっかりの人生ですね。
正直、逃げずに踏ん張っていれば、多分別の人生もあっただろうな、とは思います。踏ん張れなかった為に、随分と多くのものを犠牲にしてしまいました。
でも、こうした経験も自分の身になってると思うし、まあいいかなって感じがしています。以前に比べると随分と視野も広がり、最近は、色々と挑戦する意欲も湧いてきました。やりたいことは山ほどあります。
いつ、何が原因で死んでしまうか分からないから、今のうちに人生を楽しむだけ楽しみたいです。
ちなみに、今の我が家の状態は、まあまあです。
一時期はどうなることかと思ったけど、最近になって父は不思議なくらい丸くなり、母も自分の問題を直そうとしています。
私も、負けずに日々精進せんとねえ。
by potecoro_ukpa
| 2006-05-27 05:19
| 夢日記